音戸町 平清盛 日招き
1月8日からNHk大河ドラマの平清盛が始まるとのことで、前日に呉市音戸町に行ってきました。
音戸とは響きのいい地名ですが元の意味は、隠渡(海賊が隠れる)・音渡(房顕覚書)・御塔(清盛塚のこと)・追門(急流迫る所)など諸説あるようです。海峡である音戸の瀬戸には象徴的な赤塗りの音戸大橋が掛かっています。これは宮島の厳島神社の朱塗りにあやかったようです。呉市警固屋(けごや)地区と向かいの倉橋島を結ぶアーチ型らせん式高架橋で、千トン級の船舶が航行できるように桁下は24mあります。音戸町は平清盛ゆかりの地で、「音戸の瀬戸」、「清盛塚」、「日招像」、「日招岩」などが有名です。
「音戸の瀬戸」は平清盛が元は陸続だったところを開削して運河としたことで有名です。出世した清盛が安芸の守へと命ぜられ、海賊も平定して瀬戸内海の海運を制覇したときに、宋(中国)との交易や海上往来、宮島に建立した平家一門の厳島神社への往来などの目的で行った大土木工事だと伝えられています。工事は1164年10月から1165年7月までの約10ヶ月間をかけて行われました。近代には運輸省によって昭和26年(1951年)から33年まで7年間をかけて工事を行い、幅30mだったものを60mに、水深も15mまで拡張を行ったそうです。
「清盛塚」は清盛が音戸の瀬戸開削工事にあたり、通例の「人柱」ではなく経を書いた石を海底に沈め完成を祈ったと言われる場所に建てられました。工事完成の20年後、1184年にその功績を称えて建立したものです。石積みの方形で周長49m、高さ5,5m、中央には2mの印塔が立っています。
「日招像」は呉市警固屋側の高台、高鳥台(たかがらすだい)にあります。音戸大橋のすぐたもとのパーキングエリア、音戸の瀬戸公園そばを山上へ1km強上ったところです。音戸の瀬戸公園はサクラとツツジの名所として知られており、5年に1度開催されている「清盛祭」(今年は4月22日)とともに、大いに賑わうことになりそうです。清盛祭やおんど文化会館「うずしお」についてはグルメサイトに掲載しました。http://hosomichi.blog.so-net.ne.jp/
高鳥台からの周囲の眺めはすばらしく、音戸の瀬戸はもちろん、呉市から遠く広島湾も望めます。
日招(ひまねき)と呼ばれる所以は、開削工事があとわずかで完成という時に陽が沈みかけたため、清盛が右手の金扇をかざして「返せ、返せ」と叫んで陽を戻らせ工事を完成したという伝説によるものです。その場所というのが日招岩です。
近くにある日招岩まで下ってみると、確かに清盛が仰いだ天の西日も、工事中だったであろう音戸の瀬戸も正面に見渡すことができました。
この日招岩には両足と杖といわれる跡が彫られて残されています。中央の葉っぱの両側が足跡です。少し開き気味で右足が前に出ています。
平安時代末期白河法皇の実子に扱われず、下賎な階級であった武士から貴族(朝廷)の太政大臣に登り詰め、武士階級が実権を握る次代へといざなった革命児、平清盛はここで遠くを見つめ何を思ったでしょうか?
ここで「ひっち俳句の細道」流のだじゃれ俳句を言う気分ではなくなったので(ほっと安心)止めにします。その代わりに立派な漢詩を紹介しましょう。
音戸の瀬戸を目前に望むおんど観光文化会館「うずしお」の2階には、江戸後期の儒学者で漢詩人だった「頼山陽」がここで舟泊した時の詩が左に掲げられています。右の同じく漢詩人の梁川星厳(やながわせいがん)は詩の中で次のように称えています。
「平清盛が開削して連山が中断され瀬戸が通じた。これはかの兎王や陽帝が行った大工事に劣るものではない。夕暮れの潮流音はまるで万馬が駆ける響きだ。平公の清盛塚には月が弓のようにかかっている。」
表の歴史では評価の良くない清盛ですが、地元にも後人にも賞賛されてきた真髄は何なのでしょうか。
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